かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

主導権を取り戻そう

ここしばらく、何かを書こうと思っても何も思いつかない時が続いています。ぱっと白紙の画面を見ると自分の頭も真っ白になってしまって、最近何に心を動かされたか、何を考えていたのかまるきり思い出せないのです。

 

よく眠れているし日常生活も普通通りに送れていて、体調がおかしい訳ではないはずです。ただ、今の状況には心当たりがあります。おそらく仕事にのめり込み過ぎていて、かつ、外から降ってくる課題に頭を持っていかれているのです。ふと気づくと、あの案件はどう取回して解決すべきかなどと考えているときが随分多くなりました。

 

これは必ずしも悪い状況という訳ではありません。成果を上げていく上で必要な場合も往々にしてあります。一方で、あまり行き過ぎると、自分の感覚や感情を放棄して機械のように仕事のことばかり考えるようになってしまいます。その結果大幅に体調を崩して休職してしまった経験もあり、どうにかそこまでに至らずに安定して日々を過ごしていきたいのです。

 

体調を崩す直前には、全てのことを効率やパフォーマンスに紐付けて考えていて、自分の中の基準に満たないものは意味の無いものと見なしていました。自分が律速にならないよう遅延なく仕事のステイタスを上げることが至上価値で、立ち止まって考え直すなんて論外だと思っていました。何かを感じることは論理の枠をはみ出す許されないことだと、いつの間にか信じていました。そして、いつの間にか仕事外の時間もその価値観にべったりと染まっていました。その場所にはもう戻りたくありません。

 

偶然、先日の出張のおかげで代休が溜まっていたので、平日に休みを取って都心に出かけてみました。働く人たちの中でひとりぼんやりとした時間を過ごしていると、少し心が緩む気がしました。背伸びした店に立ち寄っていい香りを嗅ぎ、ふと立ち寄った美術館で何も考えずただ美しいと感じる絵を見て、気心が知れた人たちと何の生産性もない会話を交わす、それらがとても価値のある時間に感じたのです。そう、生産性なんて言葉に仕事外で囚われなくていいのです。

 

こうやって文章を書いていると、なんだか自分自身に励まされているような気がしてきました。特にテーマや進行が決まらない中で書き始めてみるのも、時にはいいものです。あまりかっちり考えすぎずに、指任せで書くことをこれから増やしてみようかなと思いました。

 

 

ただいま日本

帰国便の扉を出てボーディングブリッジに入ると、ぬるく湿った空気が体を包みました。何よりも日本を感じる瞬間です。ああ帰ってきてしまったなと思います。

 

行く前にはあんなに緊張して夜も寝付けないほどだったのに、行ってしまえば日々楽しさしかありませんでした。取り越し苦労もいいところで、もう少しリラックスして出張前を過ごせたら良かったのにとすら思います。でもこればかりは経験を積んで慣れていくしかないですね。

 

久しぶりの生の英会話も、思ったことの半分くらいしか伝えられなかったけれど、変に気負わず実力通りの会話ができた気がします。次のやる気に繋がるいい経験ができました。

 

知らない人と技術について話すのはとても楽しいことです。特にそれがあまり知らない世界のことだと、より一層わくわくします。日本にいたら周回遅れになるか、そもそも入ってこないかもしれない情報が、飛行機にたった10数時間乗るだけで何気なく自然に手に入るというのは凄いことです。文字通り世界が開けるような気がするのです。

 

とはいえやはり言葉のハンデを感じる瞬間はしばしばありました。一番悔しかったのは、学会の懇親会会場で知らない人の輪に入ることがなかなかできなかったことです。日本でなら輪の外からある程度話題を察して入っていけるのに、英語環境だとどうしても腰が引けてしまいます。ざわついた場面で、漏れ聞こえる言葉を手がかりにさりげなく話題に加われるようになるにはまだまだ訓練が必要そうです。でも、それがうまくできるようになれば、もっともっと世界を広げることができる気がします。

 

明日からまた通常業務に戻ります。今回の出張で感じたことを日常に埋もれさせずに、次の機会を目指してまた一歩ずつ自分の力を高めてゆきたいです。

 

 

アメリカ アメリカ

今、アメリカの小さな地方空港の片隅の喫茶店にいます。出張も中盤となり次の都市に意気揚々と向おうとしていたところ、到着地の天候不良により飛行機がキャンセルになってしまったのです。

 

行きの便でもロストバゲージがあり、なかなか多難な出張です。これ以上何もないことを祈るばかりです。

 

そんな中でとても救われるのが、空港係員の皆さんが優しいことです。過去の飛行機トラブルの際には割と冷たくあしらわれることも多かったのですが、この空港では皆が親身になって対応くださいます。

 

目的地への振替便を手配してくれたおじさんは、出発時間が遅くなり空港での待ち時間が長くなることを心配して、空港のそばのいくつかのホテルにデイユースができないか、懸命に問い合わせしてくれました。代金は俺が払うから心配するなよ!という言葉付きです。実際は航空会社持ちだと思いますが、いかにもマッチョなアメリカ人という風貌でそう言われるとやけに頼もしく感じました。残念ながら空きはなく、代わりにと空港内で使えるクーポン券を沢山持たせてくれました。空港の中の店はこの喫茶店だけなのでたぶ使いきれません。でも、その大雑把さが逆にいいですよね。

 

ロストバゲージの対応をしてくれた方も、何度も荷物の行き先を確かめてくれた上に折に触れて状況を伝えてくれて、とても助かりました。荷物はどうやら別の飛行機に乗ってしまったようでしたが、その尽力のおかげでスムーズに手元に戻ってきました。半ば諦めていたので、見つかった時にはとても嬉しかったです。

 

1人で慌てているところに思いがけない助けがあると、こんなにありがたい気持ちになるものですね。日本に帰ったら、自分もできるだけのことを周りにしていこうとしみじみと思いました。

 

今回の振替のおかげで、期せずして初めて行く空港を経由することになりました。空港から出るほどの時間はないですが、上空から知らない土地を眺めるだけでもわくわくします。回り回って意外と幸運な経験をしているのかもしれません。

 

日々の草を抜く

新居に移ってはや一週間が過ぎました。程よく雨が降り程よく日が差す毎日で、敷地内に小さく土が残る部分に雑草が目立ってきました。そこで、週末にふと思い立って草抜きを始めました。

 

この日のために用意した草刈り鎌を無心に土に突き刺し、草の根を起こしていきます。ちょうど前日に雨が降ったことで土は程よく緩み、草が気持ち良くすぽすぽと抜けていきます。時折、ロゼット葉の根元だけがぶちぶちとちぎれて根が残るものもいます。そうなったら小さいスコップで周りを掘り起こして根を取り除いてやるのみです。ドクダミは数週間前に根絶やしにしたはずなのに、いつの間にか小さな葉をあちこちに広げています。恐るべき再生力です。

 

植物は動物と異なり、体のどの細胞からでも自分自身を再生することができます。これによって、体の大部分を失ってもまた生えてくることができるのです。動物が体のごく一部を失うだけで死んでしまうのとは対照的で、植物と向き合うたびにいつも感心させられます。無論、もう生えてきて欲しくない植物を相手にした時には、その感心は軽々と憎しみに変わってしまうのですが。

 

家の雑草はどこからくるのかと見渡すと、家の裏の細い用水路と、それに沿って伸びる遊歩道が雑草まみれになっていることに気づきました。自治体が管轄している区域ですが、人手不足なのか手入れが回っていないようです。このまま手をこまねいていると我が家にどんどん新たな種が飛んできて、いたちごっこになりそうです。自宅の敷地の草抜きを終えて勢い付いたところで、用水路と遊歩道の草抜きも始めることにしました。こちらは敷地内よりもずっと手強く、草なのか木なのか判然としないほど育った植物やそれに絡みついて更に行き先を求めているツル性の何か、シダやキノコと盛りだくさんです。ときどき傍らを通り過ぎる人や散歩する犬に挨拶をしながら作業を進めると、2時間ほどでずいぶんとこざっぱりした空間ができました。

 

汗だくになって今日の成果を見ていると、最近では一番というくらいの達成感が湧いてきました。振り返ってみれば、普段の仕事の多くは手掛けてから結果が出るまでに月単位や年単位の時間がかかり、色々な立場の人の思惑も絡み、目論みと成果は必ずしも一致しません。それと引き換え、草抜きは実に単純明快で、手を動かした分だけ地面が顔を出し、抜いた草が積み上がっていきます。まさに爽快です。

 

遠くばかりを見る仕事で煮詰まる前に意識的に小さな確実な仕事を入れていくことで、健やかな時間を過ごしやすくなるのかもしれません。後者のタイプの仕事ばかりだと大局を見失って良くないのですが、ちょっとした充足感が心の支えになることもあります。自分の仕事の中の草抜き的なことを、少し意識的に考えてみようと思いました。

書く理由

人間の脳は、学習したことを1日後には74%、1か月後には79%忘れているそうです。何かを覚えようとしたときすらこの数字なので、日常の景色や些細な出来事はほとんど記憶に残っていないでしょう。試しに昨日の出来事を朝から辿ってみようとしても、断片的な記憶が無理矢理掘り出されただけでした。

 

ところが一度自分で咀嚼して文章の形にした出来事だと、意外なほどすらすらと、その時の感情や光景も含めて蘇ってきます。自分の書いたブログの投稿は気恥ずかしくて読み返すことができませんが、タイトルを見るだけでも、その頃に考えていたことがくっきりとイメージできます。それがあまりに鮮やかすぎて、自分の中で再構成したフィクションを正しい記憶と思い込んでいるだけなのではと思ったりもします。いずれにせよ、真実は藪の中です。

 

ブログを書いていて良かったと感じるのは、その当時に書いた言葉たちが、時折自分を支えてくれるような気がするからです。気持ちはあやふやで移り変わっていきますが、文字に残したものが自分を繋ぎ止めてくれる瞬間があるのです。特に休職中に書き連ねた文章のいくつかは、仕事への思いを再確認させるのと同時に、自分自身を大切にすることの大事さを折に触れて気づかせてくれます。

 

色々な人の文章に、これまで随分と救われてきました。そのうち、できるなら自分の文章でも誰かの辛さに寄り添えたらという思うようになりました。一方で、不特定な誰かのことを意識せず自分自身の感情や関心を素直に表現したいという思いが、文字を打つ指を時折迷わせました。でも振り返ってみれば、自分が救われた文章も、誰かがその人の感情や関心を素直に書いたものなのかもしれません。少なくとも私自身が、過去の自分の文章に救われたようにです。N=1の不確かな根拠ですが、文章それ自体の持つ力をもっと信じてもいいのかもしれません。

 

何かを特別に望むでもなく、誰かの役に立たなければと気負う事もなく、ただ出来事と感じたことを書く人がいてもいいですよね。効率や成果を求めがちな日常の中で、それと違った価値観で過ごす時間は私にとって貴重な時間です。自分の内側にある思いを文章に置き換えることや感情にぴったりと重なる言葉を見つけていくことは、それ自体がとても楽しいのです。

 

おそらくまた、なぜ文章を書いているのか、その時間になんの意味があるのかと考える時がくると思います。それまでは、この時間を大切にして過ごしていきたいです。

 

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

家を移る

先週末に新しい家に引っ越しました。

 

これまでの引っ越し回数は計8回で、今後の人生で2桁にのるかどうか微妙なラインです。できればもうしたくない気持ちとあと何度でも新しい場所で暮らしてみたいという気持ちが、自分の中に半々で存在しています。

 

もう引っ越したくないというのは、手続きの煩雑さ以上に、愛着のある場所から離れる寂しさからくる感情です。特にある程度年を重ねてからは、自分が選んだ場所に居を構えているせいか、その場所と別れるときに何ともいえない切なさを感じるようになりました。

 

今回の引っ越しでは仕事をしながら片手間で作業していたこともあり、当日まであまり感情が動かずにいました。これが慣れというものかと自分でも驚いたほどでした。でも、旧宅の片付けをほぼ終えて最後の掃除をしているとき、もうここを掃除することはないのだと思った瞬間から、やはり寂しさが襲ってきました。この家では、新型コロナでの外出自粛やリモートワーク、自分自身の体調不良もあり、これまで住んだ家よりずっと、家の中で過ごす時間が長かったのです。家の外に出られず、窓から見える木々や鳥の声をただ感じるだけだった日々に、周囲の環境がささやかながら彩りを加えてくれました。

 

距離的にはもう来られない場所では決してなく、いつでもまた行けるのだとしても、自分自身がおそらくそうすることはないだろうことは分かっています。その家の周りの環境は時間と共に移り変わり、かつて自分が暮らした頃のままではないからです。ふるさとは遠きにありて思うもの、とは良く言ったものです。

 

荷物の運び出しが終わり、何もない空っぽの空間を見渡すと、思いの外部屋が広かったことに気付かされました。何年も前に初めてこの部屋に足を踏み入れたときも、そういえば同じように感じました。住んだ年月の分だけ古びてはいるものの、この部屋で増えた思い出とは裏腹に、部屋自体には何も付け足されてはいないのだと思わされます。結局、思い出は自分が作り出して持ち去っていくものなのです。

 

これまでありがとうございました、と心の中で呟いきながら最後にドアの鍵を掛けたとき、少しだけ目が潤みました。良い場所に恵まれて、良い時間を過ごすことができました。次に暮らす場所でも、また沢山の思い出を作っていけたらと思います。

だんだんと似てくるもの

小さい頃は魚肉ソーセージが嫌いでした。あの毒々しいオレンジ色のビニール包装を歯で切って開けるのも、その中のぶよっとしたピンク色の質感も、何ともつかない曖昧な味も、全部ひっくるめて苦手でした。

 

ところが、父親はそれが大好きで、スーパーに買い物に行くたびに、母親の持つ買い物カゴに後ろからこっそりと大量の魚肉ソーセージを入れていました。そして、晩酌のたびにいそいそとそれを取り出す父親を見るたびに、大人というものはおかしなものだとつくづく思っていました。機嫌が良い時はお前も食えと半ば無理矢理に押し付けられ、うまいか、という問いかけを曖昧に濁しながら、隣り合って黙って口を動かしていたこともありました。

 

進学して家を出て、しばらくは魚肉ソーセージのことはすっかりと忘れていました。再会したのは社会人になってからのことです。

 

会社の購買では、おにぎりやパンなどの目ぼしい食べ物は朝早くから瞬く間に売り切れてゆきます。お昼どき、実験に集中してうっかり食堂に行きそびれたときには、購買に残っているのはカロリーメイトのような乾き物、野菜ジュース、そして魚肉ソーセージくらいでした。この組み合わせは意外に栄養バランスが良いように思えて、ある日ふと手に取りました。

 

驚いたことに、昔あんなに毛嫌いしていた魚肉ソーセージも、今となっては包装に切り込みが入っていて剥がしやすく、あのぼやっとした味もなんだかしみじみと美味しいもののように感じました。疲れているときはなおのこと、その絶妙な塩気が心と体に沁みわたるような気がしました。そして、どこも尖ったところのない優しい味に、なんだかほっとしました。昔の父親も、肉体労働から帰宅してのひと時に、このぼんやりとした感じを楽しんでいたのかもしれないと思いました。

 

そうこうしているうちに、仕事が立て込んだ時の昼食や夜食の定番は魚肉ソーセージになり、デスクの引き出しにいつも常備するまでになりました。いつのまにか、変わり種を見つけたからと差し入れの魚肉ソーセージをくれる人まで出てきたほどです。

 

今日も頑張るぞと包装を開けている時、いつもふと父親の姿が脳裏をよぎります。そして、昔あんなに反発していた、昭和を絵に描いたような頑固親父にだんだんと似てきている気がして、複雑な思いと共に絶妙なおかしみを感じるのです。

 

今週のお題「苦手だったもの」