かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

余白を信じる

2月はもともと日数が少ないうえ、祝日が2日もあるので実働時間は短くなります。ですが、やるべきことはそれに応じて減る訳ではなく、むしろ年度末の締め作業や時期を問わない駆け込み案件のお陰で業務時間は増えていたように思います。特に2月は会議がとても多かったです。

 

打ち合わせ用のデータを出しつつ資料にまとめ、会議主催者として議論を進めて議事録を作る、までを一日中繰り返していると、どうしても完璧な準備ができないことがあります。ただその中で、意外と完璧じゃなくても回るんじゃないかと、ふと腑に落ちた瞬間がありました。

 

記載が足りなければ後で補足しても、口頭で追加しても良いのです。また、これまでは会議の場でのストーリー展開を何パターンも予測して、参加者の質問を先回りした回答を作っておくのが常でしたが、全ての会議でそれをやる必要もないのです。心配ごとの9割くらいは実現しないのと同じく、色々な準備も意外に無駄になっていたかもしれません。それに気づいてとても驚きました。

 

昔ならそう思うこと自体が手抜きで、参加者の時間を無駄にすることだと憤っていたでしょう。でも参加者の目的は私の準備した答えを聞くことではなく、議論することそのものかもしれません。参加者だってチームの一員なのだから、私が気を遣いすぎる必要もないはずです。その場で転がっていくストーリー展開が、余白が残っていた結論が、自分が想定していた手堅い結果を軽やかに飛び越えていくことが何度かありました。これがチームで働くことなんだと初めて感じました。

 

まだ意識して隙を作るまでには至っていませんが、良い気づきだったと思います。発見を偶然で終わらせずに再現させていくためには、完璧という安心をあえて捨ててチームを信じる必要があります。そこに挑戦していくこと、それが許される環境を自分の周りに作っていくことを続けていきたいです。

 

今週のお題「大発見」

 

自分の言葉で通じ合うために

大学院通学に一区切りがつき、資格試験にも無事合格しました。来年度以降に何を目指すかを考えたとき、その一つとして「流暢に英語を話せるようになりたい」という思いが湧いてきました。

 

海外顧客や共同研究先と議論する時、日本語で話すよりも密度も内容も薄い会話になり悔しい思いをしたことが何度もあります。特に顧客との会話では、こちら側にどれだけ優れた技術があっても、言葉が片言では聞く耳を持ってもらえません。限られた打ち合わせ時間で言いたいことを端的に表すには、高い言語力が必要です。それに、前時代的かもしれないですが、直接の会話以上に熱意を伝える術はなく、メールのやり取りや通訳を介した会話では、ある一定のところから距離を詰めることは難しくなるのです。

 

言葉をうまく操るようになるには、ある程度の基礎を固めた上で実際に発することが一番です。そこで、先月からオンライン英会話を始めました。今のところ朝の30分を充てることで習慣化に成功していて、このまま大きな負担なく続けることができそうです。

 

うまく習慣化できているのは、時間を固定したことに加えて、会話自体を楽しめているからということが大きいように思います。概ね仕事に関連する話題が多いですが、それでも業務上で関わりない方と毎日時間を取って話すには心の余裕が必要で、それができるように今のところうまく調整できています。そして、仕事に対してこんなに語れることがあるのかと自分でも驚いています。

 

会話の上達には、基礎的な語学力と話したいという熱意に加えて、自分の中のコンテンツが揃う必要がある気がします。昔、仕事で全然英語が話せないと思っていた頃は、真に相手と話したいと思っていることも実は少なかったのかもしれません。今は話すべきことが自分の中に蓄積できていて、すこし成長したなと素直に実感することができました。

 

今の良い流れを大事にして、もっと上手く英語で表現できるようになってゆきたいです。まずは自分が納得するまで、練習を積んでいこうと思います。

 

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

 

とても嬉しかったこと

今日、会社全体の飲み会で、昔の上司に久しぶりに挨拶をしました。その人は私の新人時代の教育担当で、自分にも他人にもとても厳しいことで有名でした。ある一時期は毎日のように泣きながら帰ることになったくらい、接するほどに自分のふがいなさを突きつけられる人でした。でもそれ以上に、その人のことを尊敬していました。

 

互いの異動があり接することが少なくなってからは、すれ違う時に軽く挨拶を交わす程度の間柄になりました。何か恐れに似た気持ちが、その人に対する態度をぎこちなくさせていました。でも一方で、いつか仕事で認めてもらいたい、頑張っているなと言って欲しいという思いがずっと心の中にありました。その思いが、仕事に対する動機づけとなっていたことは否めません。

 

そんな人から今日、また一緒に仕事がしたい、同じ部署に来てくれたら嬉しいと言ってもらえました。自分の耳が信じられず、感情が追いつきませんでした。帰りの電車に乗ってようやく、嬉しいという気持ちが湧いてきました。それでも、時間が経ってしまったせいで、実は酔った頭が作りだした妄想なんじゃないかと疑う気持ちが傍らにあります。

 

頑張ってきて良かった、と心から思います。なにを成し遂げた訳ではないけれど、目標が一つ叶ったような気がします。部署が離れても遠くから少しでも見てくれていたんだと思うと、ありがたい気持ちでいっぱいです。

 

その評価に恥じない自分であれるように、明日からもまた頑張ります。今の気持ちを忘れないために、久しぶりにここに文章を書きました。

 

 

 

元気にしています

ふと勉強したくなって、MBA取得のための講座に通い始めました。日々の業務を少し違う視点で捉え直すことができ、とても楽しいです。大学院入学と卒業を目指すほどの熱量は今のところありませんが、この先のことは分かりません。結論を急がずにぼちぼちと行こうと思います。

 

環境を変えたことで、自分のキャリアを少し冷静に見られるようにもなってきました。数年前から、マネジメント職としての管理職を目指したくない自分の思いと周りからの視線との差に苦しんでいました。体を壊すほど働いてしまったのも、周囲の期待を裏切っている状況に対して、成果を出すことでなんとか弁解したいという意識が働いてしまったからという気がします。でも世の中を見渡すと、技術者としての(マネジメント職ではない)管理職というポジションを設定する企業もあります。今の会社や役職にこだわる必要もないと思うと、少し気持ちが楽になりました。すぐに転職という訳ではありませんが、自分が今後どのような道を取りうるのか、少しずつ情報収集を始めました。

 

そんなことで、文章を書く時間も人の文章を読む時間も取れない日々が続いています。でも、前向きに元気に過ごしています。きっと今は文章とは別のインプット、アウトプットを求めている時期なのです。またふと書きたい欲が湧いてきたら、時間など気にせずに書き始めると思います。その時が来たら(意外とすぐかもしれないのですが)、またよろしくお願いします。

甘い納豆

大学生のころに住んでいた寮は共同の台所と食事スペースがあり、偶然行き合った人となんとなく話しながら食事をすることが良くありました。寮生はさまざまな地方から出てきた人で構成されていて、互いの食文化の違いに驚かされることもしばしばでした。

 

なかでもびっくりしたのが、納豆に白砂糖と七味唐辛子をたっぷりとかけて食べる人を見た時です。納豆には付属のタレとカラシを入れる以外の発想が無かった私にとって、それはまさに未知との遭遇でした。味の想像も全くつかなくて、半ば罰ゲームなんじゃないかと思ったほどです。でも、食べている人はごくごく自然体で、うまいともまずいともつかないただの日常のような顔をして納豆トレイからずるずると豆をかきこんでいました。その人とはそこまで親しくなく、互いに目に入らない風を装いながらも、私の頭は興味でいっぱいでした。

 

翌日、3パック入りの納豆をいそいそ買い込んできて、タレとカラシはみみっちく冷蔵庫のポケットにしまい、納豆の上のビニールを剥がして思い切って砂糖をざぶりとかけて見ました。さらに七味唐辛子をこれまたざばざばとかけました。豆の茶色の上に砂糖の白、唐辛子の赤が乗り、とてもおかしな見た目です。これをぐるぐるとかき回すと、砂糖が思いの外しっとりとした糸になり、いつもの納豆よりもずいぶんふっくらとした泡立ちになりました。ちらちらと散った赤が意外にいいアクセントです。

 

そのまま口に運んでみると、これがまた思った以上に悪くないのです。豆自身の旨みをベースに、粘りのおかげでマイルドになった甘さがその上に乗り、納豆自体のクセがいい具合に和らいでなんとも上品な味わいです。さらに溶け残った砂糖のジャリっとした食感や、後から追いかけてくる七味唐辛子の辛さが良いアクセントになっています。罰ゲームどころかかなり美味しい、新しい味との出会いでした。

 

この甘口の納豆は、その後の大学生活での私の定番になりました。研究で疲れた時に口にすると、砂糖の甘みと豆の味わいにほっとしました。当座動くために必要な栄養もある程度摂取できた気がして、心も体も満たされました。

 

寮を出て一人暮らしを始めると、砂糖を買う習慣が無くなりこの食べ方もいつしかしなくなりました。共同の台所の中の共同購入した砂糖という仕組みがあったからこそ巡り合った味だったのですね。味の記憶というのはすごいもので、今でも何となく舌の上に蘇らせることができます。もう一度作って食べてみたいような、でも記憶と違うことが怖くて試せないような複雑な気持ちです。

 

今週のお題「納豆」

 

知らない人と出会うこと

学会の集まりで、見ず知らずの人たち何十名かと立食パーティーをしました。こういう時、私は知らない人と会って話をすることが本当に好きなんだとつくづく感じます。会が始まる前の少しの緊張感、それを乗り越えて誰かと分かり合えた時の解放感、その後の二次会以降のぐだぐだとした時間までひっくるめて、幸せだなと思います。

 

昔は人見知りが激しくて、小学校のときにはクラス替えの後に二学期が終わるまで話したことがない人が何人もいるような子供でした。それがこんなにしらしらと見知らぬ人との会話を楽しんでいるなんて、分からないものですね。無論、この場限りでもう会うことがないからこそ気軽に楽しめている面もあり、本質的に性格が変わった訳ではないかもしれないのですが。

 

コロナ禍の間、新しく出会う人とは画面越しに必要なことを話すだけの関係性が続きました。声だけの関係で終わった人もたくさんいます。それと比べると、やはり対面で得られる情報量や心理的なつながりは段違いに多く感じます。そんな世界に戻ってこれて本当に嬉しいです。自分自身が人と生身で関わり合うことにこんなにも飢えていたんだと改めて気付かされました。

 

同じ業界にいる人同士で話すと、会社や組織が違っても意外に同じことに悩み、苦労していたことが分かります。そうやって足元に広がっている薄い連帯感を見出すことで、人は強くなるのかもしれません。そう思うと、これまでの数年間はとても危うい橋をみんなで孤独に渡っていたんだなと思います。橋の長さが有限で、橋の先がちゃんと同じ場所に繋がっていて良かったです。

 

酔っ払った頭のまま、いい気分に任せてふわふわと書き連ねてしまいました。明日以降に見て恥ずかしくなるかもしれないですが、こういう日もあったという記録のために、このまま何も考えずに投稿することにします。

 

おやすみなさい。

 

 

 

主導権を取り戻そう

ここしばらく、何かを書こうと思っても何も思いつかない時が続いています。ぱっと白紙の画面を見ると自分の頭も真っ白になってしまって、最近何に心を動かされたか、何を考えていたのかまるきり思い出せないのです。

 

よく眠れているし日常生活も普通通りに送れていて、体調がおかしい訳ではないはずです。ただ、今の状況には心当たりがあります。おそらく仕事にのめり込み過ぎていて、かつ、外から降ってくる課題に頭を持っていかれているのです。ふと気づくと、あの案件はどう取回して解決すべきかなどと考えているときが随分多くなりました。

 

これは必ずしも悪い状況という訳ではありません。成果を上げていく上で必要な場合も往々にしてあります。一方で、あまり行き過ぎると、自分の感覚や感情を放棄して機械のように仕事のことばかり考えるようになってしまいます。その結果大幅に体調を崩して休職してしまった経験もあり、どうにかそこまでに至らずに安定して日々を過ごしていきたいのです。

 

体調を崩す直前には、全てのことを効率やパフォーマンスに紐付けて考えていて、自分の中の基準に満たないものは意味の無いものと見なしていました。自分が律速にならないよう遅延なく仕事のステイタスを上げることが至上価値で、立ち止まって考え直すなんて論外だと思っていました。何かを感じることは論理の枠をはみ出す許されないことだと、いつの間にか信じていました。そして、いつの間にか仕事外の時間もその価値観にべったりと染まっていました。その場所にはもう戻りたくありません。

 

偶然、先日の出張のおかげで代休が溜まっていたので、平日に休みを取って都心に出かけてみました。働く人たちの中でひとりぼんやりとした時間を過ごしていると、少し心が緩む気がしました。背伸びした店に立ち寄っていい香りを嗅ぎ、ふと立ち寄った美術館で何も考えずただ美しいと感じる絵を見て、気心が知れた人たちと何の生産性もない会話を交わす、それらがとても価値のある時間に感じたのです。そう、生産性なんて言葉に仕事外で囚われなくていいのです。

 

こうやって文章を書いていると、なんだか自分自身に励まされているような気がしてきました。特にテーマや進行が決まらない中で書き始めてみるのも、時にはいいものです。あまりかっちり考えすぎずに、指任せで書くことをこれから増やしてみようかなと思いました。