かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

文章の中の孤独、そこから得る力

室生犀星の随筆を読んでいると、彼と親交のあった萩原朔太郎の話題がたびたび出てきます。同時代を生きた2人が嫉妬のような黒い感情にとらわれずに親愛を交わしている様子が感じられて、ほっとします。2人とも孤独を背景として作品を作りながらも、それとの向き合い方がずいぶん異なっているように感じます。だからこそぶつかり合わずに済んだのかもしれません。

 

室生の随筆に引用されていた、萩原の短文があります。『病気の狼』と題された文章です。これを読んだときに、まるで自分のことが書かれているような気がしてはっとしました。

 

孤独に慣らされた狼は、月の夜に、白くつもった雪の上を歩くのを恐れるのである。何故と言えば、白く光る大地の上には、彼のみすぼらしい影がうつっているからである。影を踏んで家にかえるとき、彼は夢魔に犯され、病気のように叫び狂うという。何という憐れな話であろうぞ。

 

復職して3週間がたとうとしています。仕事から離れている間は向き合わずにすんでいた汚い心が、徐々に姿を現してきました。自分の至らなさや周囲への嫉妬、競争から零れ落ちてしまったことへの羞恥、何と名前を付けられるわけでもない身をじりじりと焦がすような感情が、気を抜くと忍び寄ってきます。まさに、白く光る大地に自分のみすぼらしい姿が映し出されている気がするのです。さすがに叫び狂うことはしませんが、帰宅途中の電車の中でいたたまれない気持ちになることもよくあります。

 

ただ、家に帰って落ち着いてこの文章を眺めてみると、萩原も同じ苦しみを抜けてきたのだと、同志のような気持ちがわいてきます。こう感じるのは私ひとりではない、きっと昔から多くの人が、同じように悩み苦しみながら生きてきたのだと感じます。孤独を真正面から書いた文章が、だれかの孤独感を薄らがせることもあるのです。改めて文章というものの凄さを思います。

 

それに、自分をみすぼらしいと感じている狼は、実際のところそうではないのかもしれません。影はあくまで影であり、そのものの姿を映しているわけではありません。美しい毛並みや鋭く光る眼は、影からは読み取ることができないのです。それと同じように、こんなにおぼつかなく感じている自分自身にも、実際には何か素晴らしい部分があるかもしれません。そう自然に考えられるようになったのは、大きな成長のように思います。

 

私にとって萩原の書く孤独は生々しすぎて痛みが勝ってしまい、詩人や文筆家としてはあまり好きではありません。ですが、他人の随筆の中で引用される文章を読むと、やはり後世に残るだけの輝きがあるのだと感じました。