かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

壁を抜けて外の世界に出ること

**この文章には、村上春樹の「街とその不確かな壁」についての記載があります。未読の方はご注意ください**

 

小学生からの読書歴のなかで、ずっと好きなままでいる稀有な作家が村上春樹です(呼び捨てが気まずいので、以降は村上さんとします)。経済的にゆとりができてからは、新しい本が出るたびに発売日に本屋に買いに行って、あらすじや解説、誰かの感想といった雑音が耳に入る前に読み終わるようにしていました。誰にも邪魔されずに一人で物語と向き合う時間はとても幸せです。

 

村上さんの書く小説は、文字ではなく映像として頭に入ってきます。それだけではなく、まさに自分自身が物語のその場に立っているように、あらゆる気配が生々しく感じられます。一方で、物語は非現実的な抽象的な形をとっていることが多く、内容を理解しながら読むというよりはその物語を体験しているような気になります。そして読んだ後にその体験を振り返って、自分にとってのその物語の意味は何だったのかとじわじわと考えさせられるのです。

 

4月に発売された「街とその不確かな壁」は、時間のゆとりも手伝って発売日に読み終わることができました。そしてその後の1か月くらいを、折に触れてふと物語を思い出しながら過ごしてきました。ストーリーを一部共有する「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」も、同じ時期に読み返しました。そして、これらの物語からふと、地下鉄サリン事件についてのノンフィクション、「約束された場所で」を連想しました。

 

「約束された場所で」の中で、オウム真理教の信者たちの姿は妙に純粋で、かつ存在感の薄い人物像として描かれています。それが、「街と…」や「世界の終わりと…」の中の、壁の中の世界に住まう人々と重なるように感じました。影として自分の欲望を捨て、金色の獣として自分の中の大切な感情を失いながら、ただ心の平安を求めて暮らす物語の中の人々が、宗教を求めて道を誤った現実の人々と似ているような気がしたのです。

 

それと同時に、壁の中の人々は今の自分とも重なりました。休職中の今の状況は刺激のない代わりに傷つくことのない守られた世界で、ここにとどまっている限り自分は守られていると感じることができます。一方でそれは、自分の影と自分の中の美しい金色の獣を殺していることでもあります。壁の中の世界で救われることもあるけれど、そこを出ていくことを忘れると何か別の悪しきものに取り込まれるかもしれない、そういったメッセージがこれらの作品群から感じられた気がしました。

 

「世界の終わりと…」と比べて「街と…」の中では、壁を抜けて外に出ること、完全ではない外の世界で暮らすことが強調されていた気がします。また、壁を抜けることは壁の中にいるときはひどく恐ろしく困難に思えても、実行さえしてしまえば容易なことでもありました。これはただ自分がそう捉えた、というだけで、村上さんが書きたかったことかは分かりません。ただ、これらの物語は私に対してじわじわと大きな勇気をくれました。

 

村上さんのエッセイの中で、読者から「これは自分の物語かと思った」という声が少なからず寄せられる、と書かれていました。物語の設定が抽象的であるからこそ、読む人がそこに自分自身を投影できるのかもしれません。その人の置かれた立場が変われば、感じ方もまた変わるのだと思います。そういった意味で、自分自身が将来この小説を読んで何を思い、どう物語を捉えるのか、興味深く感じます。

 

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今日は、今後のブログとの付き合い方を練習するために、少しふわふわとした短い文章を書いてみようと思っていました。なのに書き出したら思った以上に熱が入って長くなってしまいました。文章のスタイルを変えるのは難しいですね。