かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

楽しいと思うことを許す

年を取るほど時間の流れが速くなる、というのはよく聞く話です。自分自身でも、子供のころの1日と最近の一日では、ずいぶん流れが違うなと感じます。子供のころは一日ずつがくっきりと分かれていた気がするけれど、大人になってからはそれぞれがぼんやりとしたひとつながりになって、気が付けば一か月や一年が過ぎてしまっています。

 

過去のことを思い出すときもそうで、「一番楽しかった日はいつですか」という問いに対して、この日とピンポイントに指し示すことができません。あんなことが楽しかったなぁ、それはいつ頃のことだったっけ、と、昔のカレンダーの上にうっすらとかかったもやのような記憶を手繰るので精一杯です。写真に残った自分の笑顔を見て、あぁこの瞬間は楽しかったんだなと思い出し、そこから新しく記憶を再生産しているようにも思います。

 

それは人の記憶の特性なのかもしれないし、あるいは楽しむことに対して自分自身がうしろめたさを持っていたからかもしれません。特に仕事を持つようになってからは、まだ半人前なのに楽しいなんて言っていてはいけない、もっと自分に厳しくしなければ、という思いが強かったように思います。中堅と言われる世代になって、社内的にも世間的にもある程度の評価を得るようになってもなお、楽しんではいけないという呪縛はいつも自分に刃を向けていました。むしろ、できるようになるべきことの要求水準は上がる一方で、かつ、残っている伸びしろは少なくなっていく中で、完璧になるためのハードルはどんどん高くなっていきました。結果、楽しさを感じることへの罪悪感は仕事中も休日もいつも付きまとっていて、なにか楽しいことがあったとしても記憶の端に追いやるようになったのかもしれません。

 

楽しさを含めて、感情をそのまま感じることを自分に許す、というチャレンジを最近になって始めました。そうすると、身近には意外なほど楽しいことがあるとわかってきました。夜に見る夢が面白くて思い出し笑いしてしまったり(夢を見たのは、それも仕事以外の夢を見たのはいつぶりだろう?)、ベランダに来る鳥の縄張り争いの様子をカーテン越しにうかがったり、くだらないテレビを見て爆笑したり、そういった小さな楽しい事柄が周りには満ちていたんだなと思えるようになりました。一年前の追い詰められていた自分なら、そんなつまらないものに笑っている自分は軽蔑の対象だっただろうと思います。でも、そこに戻りたいかは今ではもうわかりません。

 

またいつか、これまでで一番楽しかったのはいつ、と問いかけられることがあったら、明確に答えられるようになっていたいです。もしかしたら年のせいで物覚えが悪くなって答えられないかもしれないけれど、少なくとも昨日一日は楽しかったよと答えられるようでありたいです。

 

お題「今までで一番楽しかった日」