かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

地図の上で想像の旅をする

コロナの流行が始まり自由に旅行ができなくなったころから、静かに熱中していることがあります。Google map上で知らない場所を訪れてみることです。

 

大陸の端や砂漠の真ん中、海の中にポツンとある島など、こんなところにと思うような場所にも人は暮らしています。アプリを航空写真モードにして、空から町の形が見えないような場所に地名の表示があれば、だいたいそこには目的の場所があります。ぎりぎりいっぱいまで拡大して小さい集落や商店を見つけると、とても嬉しくなります。その町からはるか遠く離れた別の町まで伸びる細い道や、町のそばの小さい空港を見つけるとなお楽しくて、次から次に知らない町へ渡り歩いてしまいます。

 

多分、自分の生涯に絶対に訪れることのない場所や人が確実に存在している、そんな余白が心地よいのだと思います。自分にとっての世界はまだまだ広がっていくんだという希望が、そこにはあるような気がします。

 

そこに住む人の生活を、マップ上にほんの数枚だけ載せられている風景写真から想像するのもいいものです。吹きさらしの場所の小さな碑や簡素なヘリポート、訪れた観光客(何が彼らをそこに引き付けるのだろう?)の笑顔の写真に惹かれます。時折、その場所に関するWikipediaのページが地図上にリンクされています。それを読んで、ある場所が持つ意外に奥深い歴史に驚くこともあります。でもやはり、そのそっけない説明文よりも、一枚の写真が伝えてくれる感情や情報に心を動かされることが多いです。

 

そして何より面白いのが、その町にある店や食堂に対する誰かの口コミです。「この地域で見た中で一番最高の食料品店」「ご飯がすこし乾燥していました」「寒くてとても遅いので全くお勧めしません!もう二度と来ることはないでしょう!」など、Google機械翻訳を通してもなお滲んでくる利用者の感情に、何となくうきうきした気持ちになるのです。この世界のどこかに、自分のあずかり知らないことで喜んだり怒ったりしている人がいる、それだけなのになんだか楽しくなります。

 

コロナの感染状況が終息して、また自由に色々な場所に出かけられるようになりつつあります。でも、この「絶対に行けないだろう場所へのバーチャル旅行」はやめられそうにありません。

 

お題「私○○がやめられないんです!」

ある日のチェルノブイリの風景

イタリアに滞在している間に絶対に行きたいと思っていた場所の一つが、チェルノブイリ原子力発電所でした。ここに行くためにはキエフ発着の丸1日かかるツアーに参加する必要があり、日本からだと訪れるハードルがなかなか高いためです。幸い、当時はイタリア‐ウクライナ間の航空便がかなり多く安く飛んでいたため、週末を使って行き帰りすることができました。

 

チェルノブイリに興味を持ったのは、今思うと野次馬的な考えからでした。教科書で見た場所に行き、時折テレビの特集番組で目にする光景を見てみたい、という欲が自分の中にありました。そして、かの地と日本で起きた原発事故とを重ねて、この後福島はどうなっていくのか、事故の先の未来を見てみたいと思ったのです。

 

キエフの中心部にあるホテルに泊まり、翌日の朝、ツアー客を乗せたバンが出発しました。私のほかはドイツから来た若者3人というグループでした。発電所までの2時間ほどの道のりの途中、ガソリンスタンドに休憩で立ち寄りました。どこから来たのと尋ねる売店のおばさんに日本からと伝えると、遠くからようこそ、と小さいクッキーをもらいました。

 

発電所の周辺には立ち入り禁止区域が設けられています。ただ、検問を受ければ区域内に入ることはでき、入域者用の施設もある程度整備されています。検問のゲートの内外は当然同じ景色が広がっています。人通りの全くない、ただきれいに舗装された道路を進んでいくと、慰霊碑や無くなった村々を祈念するモニュメントが道の脇に時折並んでいます。そして、かつて村のあったあたりには、廃屋や学校のような建物の跡があります。春先の天気が良く暖かい日だったので、廃屋の中に生えた雑草に花が咲いて、そこにハチやチョウが集まっていました。野鳥の声もそこかしこで聞こえました。ただ、ガイドの方が壁のそばの落ち葉の吹き溜まりにガイガーカウンターを近づけると、危険を知らせるアラームが鳴りました。

 

原子力発電所はコンクリートのドームで覆われていて、思っていたよりもかなり近くで見学できました。廃炉作業のためのトラックやクレーンが、ドームの脇を動いていました。すぐそばを幅の広い川が流れていました。その川は少し実家の近くの川に似ていて、退屈そうな顔をしたおじさんたちが釣りでもしていそうな場所でした。水面に反射する光がきらきらとまぶしく、ここが事故の現場だと言われなければ、どこにでもあるさびれた田舎の風景と思ったかもしれません。

 

その後、原発近くにあった住宅街の跡地に案内されました。団地とスーパーマーケット、小さな遊園地などのある、よく報道にも出てくる場所です。これまでにみたその場所の写真はどちらかというと暗めのおどろおどろしい印象のものでしたが、明るい光のもとで見ると思った以上に普通の場所でした。ほんの数十年前まで人が暮らしていた、その日常をなんとなく想像できました。ツアーで一緒に来ていたドイツ人たちが、廃墟の中でまるでホラー映画を撮っているかのようにはしゃぎまわり、自撮りしているのが不愉快でした。

 

事故や事件で有名になった場所は、無意識に日常と切り離されて特別な場所として認識してしまいます。でも、その場所に行ってみることで、そこは決して特別な場所ではなく自分の立っている場所と地続きにあるのだ、と実感しました。ある土地は過去から変わらずにずっとそこにあるのに、人間がその場所を特別にしてしまうのだ、とも思いました。

 

今、ウクライナをニュースで見ない日はありません。キエフで宿泊したホテルは報道関係者によく使われているようで、その頃に部屋から見た風景がそのままテレビに映っています。あの旅行でかかわった人たちは大丈夫だろうか、と、届きもしない思いがニュースを見るたびに胸を刺します。

 

 

今週のお題「行きたい国・行った国」

金色に輝く美しい町

街並みや建築よりも自然の景観が好きで、心に残っている旅行先も雄大な景色で知られる場所が多いです。ただ、その中で唯一、街並みの美しさに惹かれて何度も訪れた場所があります。それが、ハンガリーの首都ブダペストです。

 

ブダペストに初めて行ったのは、イタリアに渡ってすぐのころでした。イタリアの強烈な日差しと乾いた空気、どこを見ても古代ローマからの遺跡群という重みから逃げたくて、別の場所に行ってみたくなったのです。ブダペストを選んだのは、その時の航空機代がお手頃だったというだけの理由で、そこに何があるのかはあまり意識していませんでした。

 

ブダペストの町はずれのホテルに到着したあと中心部に向かう地下鉄に乗り、駅から外に出たのはもう夕暮れ時でした。ぶらぶらと土産物店をひやかしながら町を歩き、ある曲がり角を曲がると、そこに金色に輝く壮麗な建物がありました。石造りのような外壁が温かみのある黄色い照明に照らされ、装飾的なドームや沢山の尖塔の先までが輝いていました。周りを飛び交うコウモリまでが、燃え上がる火の粉のようにきらきらと光っていました。そこがハンガリーの国会議事堂だった、というのは、あとで地図を見て知ったことです。そんな情報はどうでもいいほどに、だんだん日が落ちて暗くなっていく中を、時間も忘れてその建物に見とれていました。初めてヨーロッパを見た、と、その時思いました。

 

ブダペストドナウ川に沿って広がる町で、川にはいくつもの橋が架かっています。夜になるとその橋がそれぞれにライトアップされ、ドナウ川にその光を落とします。歴史を感じる吊り橋に点々と灯る柔らかなあかり、向こう岸に見える古い城、その足元を走る古めかしい路面電車、そのすべてに胸をゆすぶられ、心を奪われました。人間はこんなにも美しい場所を作れる、それが信じがたいほど美しく感じる場所でした。

 

ブダペストにはその後、何度も訪れました。美しいだけではない歴史がこの町にあることも、徐々にわかってきました。夜には輝いていた町も、太陽のもとではくすんで見えるときもありました。中東からの難民が東欧に流入してきた時期だったため、訪れるたびに路上生活者が増えていたことも印象に残っています(これを受けて、ハンガリーの南側の国境に壁が作られる事態となりました)。

 

それでも、ブダペストの輝きは心をとらえて離しません。これからも何度となく訪れてしまうだろうと思います。

 

今週のお題「行きたい国・行った国」

争いに完全な善悪はないということ

イタリアに住んでみて驚いたことの一つが、他の国に行くための飛行機のチケットが安いことでした。LCCが多く飛んでいて、往復数千円で海外旅行に行けることもしばしばでした。なので、週末やちょっとした休みを利用して旅行することが増え、これまでに訪れた国は40か国くらいになります。今週は、その中で印象に残った場所について書こうと思います。なお、今週は木曜と金曜は更新できないので、全3回のシリーズになります(おいおいまた続けるかもしれません)。

 

*****

 

ものごころついて初めて見た戦争は、旧ユーゴスラビアの内戦でした。テレビに毎日のように映っていた人々の泣き顔や銃声が、記憶に残っています。それでも、旧ユーゴの場所はあまり意識になく、イタリアの隣国であったことを渡航して初めて実感しました。

 

初めて訪れた旧ユーゴの国はクロアチアで、目的地はプリトヴィツェ国立公園でした。冬に訪れたその場所は、雪景色と青く澄んだ水、ところどころに流れる滝があいまった幻想的な光景で、いつまでも歩いていたくなるような場所でした。宿泊先はその近くのラシュトケという小さな町でしたが、ここも町の中に小川が流れ数々の水車が回る美しい町でした。民泊で泊まった宿のオーナーと話すまでは、そこが戦場だったことにはまったく気づきませんでした。

 

「僕が小学校に入学してすぐ、戦争が始まった。小学校に通うはずの期間はずっと難民生活で、この町に戻ってきたときはすべてが廃墟だった。セルビアは今でも憎い。」自分とほぼ同い年のオーナーの言葉に、虚を突かれました。過去のものと思っていた出来事が、生々しく立ち上がってくる気がしました。そして、当時は感情移入して見ていた出来事が完全に他人事になっていたことに気づいて、自分自身を薄っぺらく感じました。そこから、旧ユーゴの各国を回る旅を始めたのです。

 

クロアチアから始まり、スロベニアボスニアヘルツェゴビナセルビアマケドニアを、何度かに分けて訪れました。コソボモンテネグロにはあいにく行くことができませんでした。どの国でも、歴史博物館(もっと直接的に『戦争博物館』としている国もありました)を訪れて、戦争への道筋や、その時人々はどう暮らしていたかを知ろうとしました。民泊を多く使っていたので、時には宿のオーナーから話を聞くこともできました。

 

理解できたことの中で一つ、印象的だったことがあります。それは、どの国にも、戦うための大義や自国なりの正義があったということです。どこか1つの国が悪でそのために戦争が始まったのではなく、歴史的な背景や当時の国際情勢の揺らぎによってバランスが崩れ、結果的に戦争に至ってしまったということです。言葉にすると陳腐ですが、その体感を得られたことは自分にとっては大きいことでした。

 

自分自身、恥ずかしいことに、セルビアを訪れるまではセルビア人にいい印象がなかったのです。当時のニュースやその後の戦犯裁判の印象をそのまま、国や国民全体に当てはめていました。でも、セルビアの人々はとても親切で優しい、普通の人たちでした。それは旧ユーゴのどの国の人も同じでした。そして、戦争によってどの国の人々も傷ついたり死んでしまったりしていたこと、一方的な加害と被害の関係では割り切れないことが、街のいたるところにある慰霊碑や広大な墓地から感じられました。

 

善悪で世の中をはかることはできない、という気づきは、その後の自分にかなり大きな影響を残しています。

 

サラエボの博物館で開かれていた、ある展覧会が心に残っています。ヨーロッパ各地の国境線の写真を集めたもので、そこに写る国境線は、壁も線もなく人や動物が行き来する単なる土地です。一方で、旧ユーゴの国境にはいまもまだ多くの地雷が残っていて、立ち入ることができない場所もあります。壁を作るのは人間である、と感じさせる写真たちでした。もしよければ、下のリンクに一部が掲載されているので見てみてください。

valeriovincenzo.com

 

今週のお題「行きたい国・行った国」

水曜どうでしょう中毒

テレビはずっと長い間、ニュースくらいしか見ていませんでした。それがここにきて、急に「水曜どうでしょう」というローカルのバラエティー番組にはまっています。地元のテレビ局で再放送をしていて、その面白さにとりこになってしまいました。今では毎週欠かさずに録画予約をしていて、番組を見終わったとたんに翌週を楽しみにするようになりました。テレビを見て爆笑したのは、この番組が初めてでした。

 

番組内容は、大泉洋とその他数名(ディレクター、カメラマン含む)が番組の企画にそって右往左往する、といったものです。日本全国をサイコロの目にしたがって移動する、オーストラリアをレンタカーで縦断する、など様々な企画があります。が、企画そのものよりも、企画した当人も含む出演者たちが常にひどい目にあってぼやき、時には怒るさまが、見ていてとても面白いのです。中でも大泉洋ボキャブラリーと物まねがさえていて、ある種の話芸を感じさせてくれます。NHKでたまに出てくるちょっと面白いひと、というイメージがガラッと変わりました。

 

そして、番組の中のゆるい雰囲気がまたいいのです。企画自体には最終目的が設定されている(海外で面白い鳥を撮影する、など)のですが、余計なことをしすぎたせいで目的を果たせずに時間切れ、なんてことも往々にしてあります。そんなときのいざこざも笑えます。

 

水曜どうでしょうが本放送されていた時期に、制作テレビ局のある地域で大学生活を過ごしていたので、周りには番組ファンが大勢いました。彼らが盛り上がっているのを横目に(ちょっと小馬鹿にしながら)番組そのものは見ずにいたのですが、その記憶があっていま再放送を見返しているので、当時に番組の存在を知れてよかったです。それに、当時見ていたら、このだらだらした番組は大して面白くないと思ったかもしれません。

 

全放送分のDVDセット(数万円)がときどき無性にほしくなって、amazonのカートに入れては戻すを繰り返しています。でも、1週間に1回30分の放送を見て次の週を楽しみにして待つ、というのも、昔懐かしくていいものですね。今の再放送では、出演者たちがアラスカでオーロラを目指してレンタカーでドライブしているところです。毎週の珍道中が楽しくてなりません。今のところ、一番はまったテレビ番組は「水曜どうでしょう」ということになりそうです。

 

お題「人生で一番ハマったもの」

力を尽くすのをやめてみる

これまでずっと、自分のできる最大限の力を尽くして頑張ることを心がけてきました。もうだめだ、と思ってもあきらめないことが大事だ、と思ってきました。そうすることで成長する、だめだった時にも仕方ないと思える、と考えていたのです。でも、これからはこの考え方をやめて、少し方向転換してみようと思います。

 

あきらめずに力を尽くせばだめだった時にも仕方ないと思える、という考えは曲者でした。まず「だめだった時に」という部分です。試験のように単純にマルバツがつくときは良いのですが、普段の仕事や人とのかかわりではなかなかそうはいきません。案件としては採用されたけれどその過程でミスがあり売値が下がった、論文を出すときに若干の論理の弱い部分に目をつぶってごまかした、など、どうしても完璧な結果にはならないことが多いのです。

そんなときに、「ここがだめだったけど本当に力を尽くしたのか」「手を抜いていたからこうなったんじゃないか」と、自分を責める方向に行ってしまいます。そして、それを避けるために完璧を目指してしまうのです。自分の仕事のことは自分が一番よく分かるので、人には見えない傷や大したことのない傷でも許せなくなっていってしまいました。

 

そして、力を尽くしてあきらめずにやる、という部分もやっかいです。目の前の課題を解決するための情報(またはそのカギとなる情報)は、調べれば何かしら出てきます。そして、課題解決のために使える技術や考え方も充実しています。さらに、あきらめたら課題は解決できないよ、という自分の中のささやきがあります。そうなると、課題解決のために自分がどれだけ力を尽くしたか、というのが焦点になってしまいます。現時点では情報や技術がない、または課題がそもそも解決できない、と証明することはできないので、結局は自分がすべての時間をかけてその課題に向き合ったかどうか、でしか自分の頑張りを評価できなくなりました。

 

さらに、仕事はお金をもらってやっているのだからプロとして恥じないことをしなければ、という思いや、自分の夢だった研究者としての成功へのあこがれが、その気持ちに拍車をかけました。そうしているうちに、睡眠と家事の時間以外は仕事をして、さらには睡眠と家事の時間を削って仕事をして、休日も勉強という建前で仕事をする、という状況になっていったのです。力が尽きるまで力を尽くすという生活で、今思うと、体を壊すのは当たり前でした。

 

いま私がやめようと思っていることは2つあります。まず、自分に厳しければ厳しいほどよい、それが努力だという考え方です。他人の(とくに後輩の)仕事を見るときのように、できていることとできていないことを客観的に見て評価しようと思います。そして、仕事に向かうときの人格に自分を乗っ取られないようにすることです。仕事とプライベートな生活は別々のものではなくて、両方とも自分の一部である、という感覚を忘れないようにしていきたいと思います。

 

お題は「思い切ってやめてみた事」なので、これからやめることの話題は少しずれています。ですが、この話題が「やめてみた事」になるまで、少し長いスパンでこの話題を続けていきたいと思います。

地震に思う

さいころに、阪神淡路大震災を経験しました。経験したといっても、私の住んでいる土地ではそこまで大きな被害はなく、震源に近い地域に比べれば震度もまだ小さいほうでした。それでも、ぐっすり寝入っている明け方に起こった、急に体を持ち上げて落とすような揺れは頭に残っています。

 

まだ暗いなかで、何が起こっているのか全く分かりませんでした。家なのか家具なのかわからない何かが激しくきしんでぶつかり合っている音、蛍光灯の傘が揺れて天井にぶつかる音、台所で皿が割れて、割れた皿の上にまた何かが落ちてきて立てる音。そんな音のなか、布団の中で動くことができずに、ただこの状況がおさまるのを待っていました。布団を頭からかぶる、ということも思いつきませんでした。次に何が起こるかわからず、今起こっているのが何なのかも考える余裕はありませんでした。

 

寝ている私の頭のすぐわきに、何か重いものが落ちてきて割れた音がしました。そして、布団のそばに置いてあった縦長のカラーボックスが上下にはねているのを感じてしばらくして、揺れがとまりました。割れていたのは、自分の頭ほどの大きさのガラス瓶に紙粘土をまいて作った、手作りの花瓶でした。夏休みの自由工作で、兄弟のだれかが作ったものだったと思います。こんなに重いものが頭に当たらずにすんだ、紙粘土があったから破片も飛ばずにすんだ、と、後片付けをしながらやっと、冷静に考えることができました。ぐちゃぐちゃになった家の中は全然現実感がなく、怖いとも思えませんでした。

 

それからずっと、背の高い家具を部屋に置くことはできないでいます。高いものでも膝の高さくらいまでに決めています。台所の吊戸棚や冷蔵庫などのどうしようもないところには、できるだけ地震対策をしています。揺れ始めてからでは、思っている以上にまったく何もできないからです。

 

最近の地震のニュースには、怖くて目を背けてしまいます。災害について自分が書こうとするどんなことばも空虚に感じます。できる限りの寄付をして、少しでも助けになればと思うことしかできません。

 

お題「これまで生きてきて「死ぬかと思った」瞬間はありますか?身体的なものでも精神的なものでも」