かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

台所のなかの夢の世界

小学1年生の時の誕生日プレゼントは包丁でした。セラミック製で先が丸い、子供用の包丁です。野菜を刻むリズミカルな音や切られた野菜が見る間に山になっていく様子が好きで、親の料理するそばについて回っては自分もやりたいと訴えていたからかもしれません。踏み台を食卓の横においてもらい、ネギの切れ端をもらって薬味用に刻むのが、私の日課になりました。

 

小学3年生のときに、コンロの火を一人で使うことを許可されました。その時作りたかったのは、お弁当に入れる厚焼き玉子でした。丸い卵が四角く仕上がっていくさまが好きで、いつか自分でも作ってみたいと思っていたのです。玉子焼き用の鍋を温めて油を引き、菜箸の先につけた卵液がじゅっと焼けるまでさらに鍋を温めてから溶き卵を流して、焼けたら巻いていく。この簡単な繰り返しでも、うまくできる日と失敗の日とがありました。うまく焼く方法やおいしい味付けを知りたくて、料理の本やテレビ番組を食い入るように見ていました。

 

小学5年生の頃から、家族7人の夕食を任されるようになりました。そのころには料理は日常になって、昔の新鮮味は少し薄れていたと思います。

 

その頃から、お菓子作りにのめりこむようになりました。子供にはお菓子を食べさせない、というのが実家の方針で、その例外が誕生日でした。スポンジケーキ台と絞り袋に入った生クリーム、ミカンとモモの缶詰をつかって、自分の誕生日のケーキを自分で作る、というのが我が家の定番だったのです。お菓子はまちがいなく晴れの日の料理で、それを作るのは心からの喜びでした。決まった材料の中でどうやっておいしく美しく仕上げるか、ここでもやはり自分の探求心が顔を出しました。生クリームの塗り付け方や絞り方、パサつきがちなスポンジの食感をよくする方法、缶詰の果物だけで見栄えをよくする飾り方、など、一年に一度のイベントなだけに熱が入りました。

 

その中で、お菓子全般に興味が広がるのは自然な流れでした。クッキー、マドレーヌ、シフォンケーキ、パウンドケーキなど、普段目にすることのないお菓子たちが私をとりこにしました。一方で、実家は経済的に豊かではなかったので、材料やオーブンレンジを買ってほしいと言うことはできませんでした。お菓子作りの道具も何一つないなかで、想像だけがお菓子を作る方法でした。

 

お菓子作りに関する本を図書館で片っ端から借りてきて、ひたすらノートに写す、というのが当時の私の趣味になりました。バターの塊を室温に戻して柔らかくする、卵を卵黄と卵白に分けてそれぞれ泡立てる、など、普段の料理にはない動きをイメージして頭の中でお菓子を作り上げるのは、とても楽しい遊びでした。それぞれの工程や材料の配合の意味を解説した本を読むと、レシピの違いで味が奥深く想像できるようになり、楽しみも増しました。お小遣いをためて材料を買い、少しづつ道具をそろえて、オーブンなしでできるお菓子を作るようになったのは小学校6年生くらいのときだったと思います。

 

中学2年生の時に、ついにオーブンが家に来ました。初めて焼いたお菓子はクッキーで、色々な材料代を節約して作ったそれは、今食べると多分そんなにおいしくなかったはずです。それでもやはり、初めてちゃんとした焼き菓子を作った、という達成感がありました。そこからは、高校3年生になるまでずっと、お小遣いをつぎ込んではお菓子を作る日々が続きました。

 

そんなに好きだったお菓子作りを、ぱったりとやめてしまった理由はわかりません。お菓子作りに自由にお金を使えるようになったころから、お菓子は作らなくなりました。ものがない中でやりくりする方法を考えることが、そして作れない日々の中であれこれと思いを巡らすことが、お菓子作りそのものよりも好きだったのかもしれません。いつでもできる、となったときに、お菓子作りに感じていた非日常の気持ちは消えてしまったのかもしれません。夢の世界が一つ消えてしまったようで、少し残念です。

 

ケーキ屋の店先でパティシエがケーキにクリームを塗っていると、いまでも夢中で手元をみてしまいます。その職人芸は、やっぱり非日常の世界だなと思うのです。

 

 

 

 

 

今週のお題「手づくり」

ぐだぐだガーデニング

私の実家は、高度経済成長期に農地を切り開いて作った住宅地にあります。すぐそばを線路が通り、用水路と細切れの農地に囲まれた場所で育ちました。近くの空港に向かう航空機のエンジン音が一日中聞こえていて、暇さえあれば窓から飛行機雲を眺めていました。

 

家の前には、沢山の植木鉢にいろいろな植物が植えられ並べられていました。小ぶりのキンモクセイを筆頭に、ツツジ、パンジーアサガオ、といった花々、何かの記念日に貰ってきてそのまま野放図に生えているカーネーション胡蝶蘭、そしてどの家にもあったのがネギでした。よく節約術で紹介されている、買ってきたネギの根本を土に植えておくと新しく生えてくる、というやつです。ネギとシソは、どの家でもいい加減にトロ箱に植えられて、いつでもだいたい生えていました。自分の家のネギの調子が悪ければ、隣の家に一声かけてもらってくる、というのが日常でした。

 

そんな植物たちの置き場所は、家の前だけにとどまりません。家の周囲を囲む塀の外側はもちろんのこと、家のそばにガードレールがあればその足元に、家の前の道路の向かい側がただのフェンスであればその足元とフェンス自体にも、といった具合に、植木鉢やプランター、トロ箱の置き場所を増やしていっていました。土のある庭はどの家にもほとんどなかったので、自分の持っている土の面積をどうにか増やそうとしてせめぎあっているようでした。ただその瞬間に手にしていた容器に手近な植物を入れて空いた空間に並べてみた、といった統一感のなさが、地域一帯を覆っていました。

 

それでも、そのいい加減な植栽のありようは、小学生の自分にとってはとても魅力的でした。ネギの先でふくらんだネギ坊主を指でつまんで破裂させたり、パンジーの花の裏にある蜜袋を摘んで中の蜜をなめたり、ホウセンカの種をはじけさせたり、悪さばかりしていましたが、それが楽しかったです。知らない家に近づいて、外飼いされている犬に時々吠え付かれるのもまたスリルでした。

 

実家から出て暮らした先は雪国だったので、除雪の邪魔になるものは家の外に置かれていません。また、広い庭を持っている家も多かったので、あえて外に植物を出すこともなかったようです。今住んでいる辺りでは家の周りに塀がめぐらされていて、コンクリート張りの駐車スペースの奥に植木鉢がぽつぽつと置かれている家がほとんどです。家の周囲を植物で実効支配しようとする動きは、多分ご近所迷惑のひとことで片付けられてしまうのだと思います。

 

時折実家に帰ると、いまだに野放図に勢力争いをしている、おしゃれとは程遠い植栽のありように安らぎを感じます。長い時間をかけて醸成されてきたなぁなぁの雰囲気が、そこにあるような気がします。

 

お題「地元では当たり前のものなのに、実は全国区ではなかったものってありますか?」

思いつきの先に見た美しい光景

大学3年生で運転免許を取りました。大学の生協の仲介で安く車を借りられると知ってからは、運転の練習もかねてたびたび車で出かけるようになりました。そんなある日、車があれば道がある限りどこまでもいけるし、その中で泊まることもできる、と思い立ちました。そして、これまで行ったことのない場所に一人で行きたいという気持ちが沸き立ってきました。

 

そんな時に目的地に設定しやすいのが「○○の端」という名目の場所です。とりあえずレンタカーを借りてきて、ナビの目的地に自分の住む島の東端の岬を入れ、研究室にあった誰のものともつかない寝袋を後部座席に放り込んで車を走らせ始めました。

 

ナビに表示されていた距離は500㎞強、意外と近いな、というのがその時の感覚でした。なにせ大半が田舎道で、渋滞も信号もないのです。実際に8時間もすれば、目的地の近くの町までやってきていました。そこから岬に向かう道は真新しいきれいなアスファルトで、車は自分の前にも後ろにも見当たらず、人も誰ひとりいませんでした。時おり見える北方領土の返還を求める看板だけが、現実感のあるものとしてそこに存在していました。こんなに一人を感じる場所は、これまでありませんでした。

 

夜になって、岬の近くの空き地に車をとめて寝ることにしました。初夏でしたが思った以上に寒くて寝付けません。そして周囲をがさがさと何かの生き物の気配が動いていて、目を開けたら絶対に何かと目が合うという気がしておびえていました。朝日がさしてきたときのほっとした感覚はいまも忘れられません。ただの低木の藪をあれほど怖がっていた自分の滑稽さが、明るくなって浮き彫りになった感じがしました。目指していた岬には日の出を見に来た大勢の人がいて、そのなかで写真をとるのもしゃくな気がしてすぐに引き返してしまいました。

 

そしてその帰り道で、これまで見てきたなかで一番美しい風景に出会いました。太平洋に面して断崖がつらなる海岸線、その上には切り立った崖の上とは思えない柔らかい草がそよぐ平地がありました。そこには小さい野生のユリが一面に咲いていて、青空の下で甘い香りが広がっていました。古ぼけたベンチにぼんやりと座って遠くの水平線を見ていると、どこからともなくキツネが現れて、ユリの咲く中を跳ね回っていました。神様は本当にいるのかもしれない、天国はこんな場所なのかもしれない、と思いました。

 

そのあと何度も同じ場所をおとずれていますが、同じような美しい風景を見ることはできていません。思い付きの旅立ちから始まって、幸運がかさなってふと見えた、偶然のカーテンの向こう側にある景色だったのだと思います。いつかまたあの光景をみることができたら、と思います。

 

お題「初めて一人旅をします。一人旅でよかった場所、一人旅初心者におすすめの旅行先を教えてください。」

なつかしい失恋とAさんの話

大学院に入った年の冬、いちばん辛い失恋をしました。いま振り返ればよくある失恋話だったけれど、当時の自分にとってはこの先の未来がなくなってしまったような思いでした。やりとりしたメールの文面をなんども見返したり、交わしたことも忘れていた約束にすがったり、どこかにまだ修復の余地があるのではと終わった恋にしがみつく日々でした。ふとした瞬間に相手のことを思い出して涙がこぼれる、なんて日常茶飯事のことでした。

 

そんな時に助けてくれたのが、研究室の先輩(Aさんとしておきます)でした。Aさんは中国の方でしたが、研究室に来る前は国際機関に勤めていて、来日した時点で英語はもちろん日本語も流暢に話し、全く専門外の分野から進学したにもかかわらず研究室でも一目置かれる知識を持つ優秀な方でした。後輩の面倒見もよく、故郷の料理を、よくAさん宅でふるまってくれました。

 

そんなAさんなので、私の様子がおかしいことにはすぐに気づきました。大学の建屋の誰も来ない屋上に私を呼び出して、口が重い私から事の次第をひとしきり聞いた後に、「なにがあっても絶対に時間が解決する、すべてはいい方向に向かっていると信じなければならない。」と言いました。悲しみの真っただ中の自分にはその言葉は信じられずに、まとまらない反論をしてひとしきり泣いたのを覚えています。Aさんは黙って私の横で煙草を吸っていました。

 

しばらくたった後にふと、時間があると余計なことを考えてしまうからよくない、と言って、私を半ば強引に連れてフランス語の個人講座に通い始めました。週2回のその講座は確かにハードで、気持ちを紛らわせるのにはうってつけでした。というより、Aさんの学習速度が速すぎて、迷惑をかけないようについていくことで精いっぱいでした。今は習ったことをほとんど忘れてしまいましたが、雪に埋もれた小さい教室の中で先生とAさんと私で過ごした時間は、いまでも懐かしく思い出します。

 

Aさんは魅力のある人だったので、いつも周りを人が囲んでいました。そして多くの恋愛を楽しんでいるようでした。種を沢山まかないときれいな花畑はできないし、まいてみないとどんな花が咲くのかは分からない、というのがAさんの口癖でした。一つの関係にのめりこむから傷が深くなるのだ、と言っていたこともあります。やれやれあなたは立派ですよ、と、どこかで読んだ本の一節を頭に浮かべて、それも一つの真理だなと思いながらも真似することはできませんでした。

 

時間が解決するなんて絶対にありえない、と思ったあの日から、長い時間が過ぎました。失恋相手と一緒によく聞いていた、当時流行していたグループの歌は、これまでずっと聞くことができませんでした。それでも最近、その歌をふと口ずさんでいる自分がいます。すべてはいい方向に向かっていると、信じている自分もいます。もう会うこともなくなってしまったAさんに、あの時会えてよかったと思います。

 

お題「大失恋をしたときどう立ち直りましたか?」

家を買う

家を買うことになりました。今住んでいる賃貸の集合住宅は、リフォームはされているものの築60年強となり、そろそろ建て直しの時期になり退出する必要があるそうです。これを機に、一戸建てを買うことにしました。

 

家探しを始めておおむね1か月で、よさそうな場所にある手ごろな中古住宅を見つけました。小さな川のそばにあり、古くからの神社からの森が残るいい場所です。できればほしいと思っていた庭も、思った以上に大きい面積で確保できそうです。家を買う、ということを物々しくとらえていましたが、意外にあっさりとしたものでした。

 

この「物々しい雰囲気」が苦手なのです。めんどくさそう、と思ってやめたことは、忘れてしまったものごとも含めて沢山あります。ずっと賃貸で暮らしてきた一番の理由は、そこに住んでいる限りは家を買う物々しさを味わわずにすむ、ということでした。それに、何か問題があったときにはすぐに立ち去れる、後腐れのなさが好きだったのです。いろんな判断をひとまず保留にして仮住まいをしているとき、自分はまだどこでにも行けるんだという気がしました。

 

ただ、最近はどちらかというと、好きになった場所を離れるつらさを強く感じるようになりました。これまで住んできた家はどれも、住み始めるときは特に思い入れがなくても、立ち去るときは心の一部が持っていかれるような悲しみがありました。世間的にみるとひどい家でも、付き合っているうちになじんで好きになっていきました。そうやって家と出会って離れてをこれから先も繰り返すのか、と思うと、それはそれでしんどいなと思うようになったのです。

 

それに、家を買ったとしても結局は自由なのです。面倒だと思っていたことの多くは大したことではありませんでした。むしろ一連の作業をするなかで、嫌になったら手放して別の場所に行けばいいし、多分自分はそうできる、という実感が持てたのはいい気づきだったと思います。

 

いま、家を買うことにしてよかったと思うことは、ベランダの鉢植えの木を地面にかえしてやれることです。毎年大きくなろうとする木を小さく切り詰めて鉢のサイズに戻すとき、いつも可哀そうな気がしていました。木が根付くかどうかはまだわかりませんが、新しい土地でしっかり大きくなってくれたらと思います。

 

お題「みなさんは賃貸派ですか? 持ち家派ですか? 最近家を買ったのですが、家の間取りを見るのが好きでいろいろな家に住める賃貸も改めて魅力的だなと思いました。皆さんはどちらですか?」

小さい部分にも意味がある、のか

先日、料理をしていた際に指先を切ってしまいました。束ねた菜の花の根本を切り落とそうとして、誤って左手の人差し指の先を包丁にひっかけてしまったのです。幸い、爪が少し欠けたのと少しの切り傷ができた程度で済みました。昨年は同じような状況で親指の腹を縫う怪我をしてしまったので、またもやってしまったかと思ってひやりとしました。

 

小さい傷とはいえ、また利き手ではない左手は大して使わないとはいえ、やはり普段通りに使えないと不便なものです。昨日の夕飯のカレーを作っていても、鍋を持つ、ルーを割る、といった一つ一つの動作に力を入れられず、何とも不自由で閉口しました。小さいパーツにも意味があって存在しているのだなと感じました。そういえば小さいころに貰ったプラモデル、あれもねじが余っているのを無視して作っていたら、最終的には全然つじつまが合わなくなって困ってしまったことを思い出します。

 

小さい部分にも意味がある、と、金言めいたことを思って満足していると、ふとベランダに置いてある植木鉢のことが引っかかりました。先週末、バラとリンゴの選定の時期だったので、昨年の間に伸びた枝や花芽をつけていない枝をバッサリと切ってしまったのでした。また、ユーカリシマトネリコなどの生命力の旺盛な木はほおっておくとどんどん伸びてしまうので、見た目がぼさぼさしてきたら大きく切り戻す、ということを繰り返しています。キキョウは初冬には枯れてしまうので、地上部を全部切ってしまいます。自然に葉を落とすことも含めると、植物は1年に何回も、体の大部分を失っているようなものです。もしこれがヒトだったらば、と考えて、気持ちが悪くなったので考えるのをやめました。

 

植物は失った部分を再生するだけではなくて、わずかに残った一部から自分自身を作り出すこともできます。多肉植物の一部を折り取ってそのまま野ざらしにほおっておくと、切り口から根が出ていつの間にかそっくり同じものが生えてきます。もちろん、元の体の欠けた部分も、なにもなかったかのように復元されています。仕組みを調べると、生き物というのは本当によくできていると感心させられます。敵から逃げられる動物とその場で動けず食べられることしかできない植物という2項で考えると、後者が受け身で可哀そうな気がしてしまいます。ただそれは、一方の視点からもう一方を眺めて勝手にそう思っているだけで、植物は思った以上に状況に適応して生きているのだと改めて思いました。

 

植木鉢の手入れをしていると、見慣れない双葉がいくつか出ていました。多分ヒヨドリがどこかの家のナンテンの実を食べて、種を我が家に落としていったのだと思います。見知らぬ庭の実を欠いたナンテンと我が家の小さな芽を野鳥が結んでいる、と想像して、すこしうれしい気持ちでその小さな芽を新しい植木鉢に移しました。

 

今週のお題「かける」

北の大地の学生寮

「18歳になったら経済的な援助はしない。家を出て自活すること。」小さいころからずっとそう言い聞かされて育ってきました。実家の家計が苦しいことは肌でずっと感じていたので、そこに全く違和感はありませんでした。そして、せっかく家を出るのだから家から一番遠い大学に行こう、と決めました。合格した大学から送られてきた各種手続き用の封筒の中に学生寮の案内があり、家賃が光熱費込みで1万円以下、といううたい文句に、入寮を即決しました。

 

入学式の数日前に、寮に入居することにしました。ふきっさらしの吹雪の中を歩いて寮までたどり着き玄関を開けると、そこには何人分とも知れない数の靴が転がっていました。古ぼけたものから現役のものまで地層のようになっている靴の姿は、いまでも鮮明に覚えています。地層のように、という枕詞を、その後何度も思い浮かべることになりました。ある時など、酔いつぶれた人が折り重なるように寝ていて、地層のように、という言葉は人間に対しても使うのだなぁと酔った頭で思ったものです。

 

靴の一件でもわかるように、そこは決して美しくも洗練されてもいない場所でした。鉄筋コンクリートの建屋の中に何百人かの大学生を入れてかき混ぜた後に数年寝かせ、そこからさらに継ぎ足し方式で作った秘伝のタレのような空気が、そこにありました。本来は個室として使うはずの部屋を改装して作った、複数人用の居住スペースはその最たるものでした。いつから使われているかわからないコタツで、年齢不詳のいで立ちの上級生たちが甲類焼酎のプラボトルを片手に麻雀をしている、それがいつもの風景でした。

 

そういう場所だけに、最悪だと感じることは多々ありました。朝起きたら目と鼻の先に全裸で油まみれになった酔っ払いがいびきをかいていたこと(当然その周囲も油まみれ)、3階の部屋から共用のブラウン管テレビを投げ捨てた上級生(外は空き地なのでけが人はなし)、落書きだらけで掃除という概念を失った吹き溜まりのような廊下、その他文字に起こすのもはばかられるようなことなど、これは本当に人が住む場所なのかと感じるときもありました。

 

ただ今思い返すと、やはりあの場所は好きだったし、同じ境遇に立ったらまた住んでしまうと思います。よくも悪くも、沢山の赤の他人のドロドロとした感情と生で触れあえる機会でした。「こいつホンマに最低やな」と思った人が時には仏のように素晴らしい人になったりする、その逆もしかり、というように、人の汚い部分からきれいな部分までを感じながら(自分も見せながら)、洗練とは程遠い場所で暮らすという経験は、なかなか味わえない興味深いものだったなと思います。最高だったか、と正面から問われると少し屈折した思いも芽生えますが、それでもやはりいい場所だったなと感じますね。

 

お題「「住んで最高だった」「住んで最悪だった」という場所」