かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

水墨画のような文章を書きたい

ブログという形式で平日に毎日文章を書くようになって、改めて書くことの難しさを感じています。書く内容をある程度想定して書き始めても、書き出しの文章に引っ張られて思わぬ方向に話がそれてしまい、テーマにたどり着くまでに道のりの大半を消化していることも多くあります。誰に評価されるでもない自由な文章なはずが、自分で設けた制約からはみ出せずに手が止まってしまうときもあります。そして、思う通りの流れで文章をつなげたとしても、考えた内容や想像していた風景を描写するのに筆力が足りないことはしょっちゅうです。

 

どうにかうまく文章を書けないかと思って本屋さんの棚を巡っていたところ、本多勝一さんの「【新版】日本語の作文技術」という本が目に留まり、読んでみました。筆者が新聞記者時代に身に着けた技術を体系立てて書いただけあって、文章内の修飾語のつなげ方や句読点の打ち方などの役立つ内容が多く、これから実践しようと感じました。

 

そして最も心に残ったのは、「無神経な文章」を批判し、自分の書いた文章を客観的に見ることを論じた一説です。

美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者自身がいくら「美しい」と感嘆しても何にもならない。…その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。

確かに、これまで素晴らしいと感じた文芸的な文章では、文字を読んでいるという感覚はなく、文章の向こうにある景色や感情をそのまま受け取れていたように思います。読み手に違和感を抱かせない文章作成の技術に加え、書く内容と適切な距離をとって本質をつかみ、読み手に的確な想像をさせられる描写力が、よい書き手になるためには必要なのです。

 

また、物事の本質をつかむために、紋切型の表現を避けることの重要性を説かれていた点も印象的でした。雪景色と言えば銀世界、春と言えばポカポカ、など、うっかり気を抜いていると、確かに何も考えずに紋切型の表現を使ってしまいます。伝えたいことと何となく似ていて便利だけれど本当は違う言葉や、自分が思ってもいないけれどつい使ってしまいがちな言葉からは、意識して遠ざかるようにしたいです。

 

考えてみれば、文章にかぎらず音楽や絵画も、心を打つものはおしなべて何か対象をとらえてそれを的確に描写しているものだと思います。印象派の絵画や抽象画、ある種の水墨画を見ると、形を正確に描いていないのになぜか「わかる」気がして心が動きます。対象に対する認識をここまで煮詰めて表現するのは難しいことですが、読む人の心を打つそんな文章が少しずつでも書けたら素晴らしいことだと思うのです。

 

(ちなみに、同じ本の中で、日記は自分のための文章で極論すれば他人が分からなくてもよい、とも書いてあります。この考えも、逃げ場として残しておこうと思います。)

 

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」