かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

カテゴリではなく個を見たい

応援や感動を強いられることが嫌いです。とくにスポーツの国際試合の観戦の際の、自国を応援しなければならない、自国が勝ったら喜ばなければならない、という雰囲気が好きになれません。オリンピックやワールドカップに対しては、後ろ向きの気持ちになってしまいます。また、国内の試合で海外の選手が出場したときに、ルール上は問題ないのによくないように捉えられるのも変だなと思います。

 

直近だと箱根駅伝がそうです。留学生が走る区間で、「外人だから早くて当たり前」「外人を出してタイムを稼ぐのがずるい」「外人に勝った日本人選手はすごい」という声が一緒に観戦している人から聞こえると、とてもがっかりしてしまいます。また、サッカーのW杯では、「日本を応援するのが当然」とばかりの雰囲気で、海外のチームや選手を応援していても何となく口にしづらいなぁと感じていました。

 

「あなたは○○だから、××しなさい(すべきじゃないか)」、という文章が嫌なのかなと思います。○○に入る部分が自分で選んだ属性ではないとき(国籍、性別、年齢、など)は、なおさらそうです。そういえば、「大阪生まれの人はたこ焼きを毎週食べているんだってね」式の会話も、苦手だったなぁと思いました。型に入ることがよしとされる、型を通して理解される感覚が、居心地が悪いのかもしれません。とはいえ、この形式の会話は関係の浅い人との話題で自分自身もよく使ってしまうので、言っている側はそこまで深い意味はないし、あえて引っかかることもないのかなとも思います。

 

また、好きなスポーツはその競技内容自体が好きで、すごい選手はその背景に関係なくすごいと思うのです。トップの舞台で成績を出すために磨いた技術やそこに至る努力は素晴らしいものです。そこに国籍や所属などの別のラベルをあえて付けて、そこから選手を見なくてもいいんじゃないの、と思います。同じカテゴリに属していたとしてもその選手と自分自身は他人で、同じ評価が自分やそのカテゴリ全体に与えられるわけではありません。じゃあそのカテゴリにこだわる訳とは、と思ってしまうのです。

 

書く習慣1か月チャレンジ、今日は「自分があまり賛成できない常識」をテーマに書きました。自分が引っかかることは、ほかの人にとっては些細なことかもしれません。それは逆に、自分が何気なくやってしまっていることが、他人を苛々させているかもしれないことを示すのかなぁと、改めて思いました。