かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

結局のところ神頼みではうまくいかないのかもしれない

神社やお寺、道端のお地蔵さんを拝むのが好きです。古い建物が多く残っている町に生まれたので、通学路のそこかしこに小さい祠や地蔵堂がありました。幼稚園に通うときはいつも、手を引く祖母と一緒にひとつづつお参りをしていました。

 

祈りの内容はたわいもないことで、おやつが欲しい、猫が飼いたい、席替えでいい席に当たりたい、とか、そんなことを願っていたような気がします。お祈りはかなったりかなわなかったりでした。

 

大きくなってからもお祈りの習慣は続いていて、通りがかりに見つけた神社にふと入って手を合わせることもしばしばです。ここ10数年くらいは、「(精神的に)強くなれますように」「賢くなれますように」とよく願っています。神仏にあまり具体的なことを祈らなくなったのは、身の回りのことはある程度自分でできるようになったからなんだろうと思います。それでも残る自分の弱さを何とかしたくて、お祈りをしているのかもしれません。

 

強さ、賢さ、というのは、達成しているかどうか判断するのが難しいものです。これらが100点満点の人は多分おらず、自分のなかでも目指す像はあいまいです。何なら今の自分にどういった欠点があってどう克服したいかも不明瞭です。でも何となく漫然と、もっと強くなりたい、もっと賢くなりたいと思ってしまうのです。これって一体何なんでしょうね。

 

ずいぶん昔に読んだギリシャ神話で、印象に残っているエピソードがあります。ある人のもとに力の神、賢さの神、愛の神が現れて、どれか1つの神を選べばその力を与えよう、その代わりほかの2つの神の恩恵は絶対に受けられなくなるだろう、と問いかけをし、その人がとても悩む、というものです。結末はあまり覚えていないのですが、その人はどれか1つを選んだ末にいっときは幸せになるものの、手に入らない残りの2つに障害苦しめられる、という内容だった気がします。この物語を読んだときは、どの神様を選ぶか自分自身も色々と空想して楽しみました。ただ、今あらためてこの話を考えると、人の根源にある欲望を神様に頼ると、結局のところは幸せにはなれないという教訓を伝えたかったのかもしれない、とも思いました。

 

書く習慣1か月チャレンジ、今日は「もし1つだけ願いが叶うとしたら」をテーマに書きました。「強くなること」と「賢くなること」、この2つのうちどちらかをと言われれば、強いて言うなら後者かなと思います。でも、それを望んだ先に幸せがあるのかは分からないなとも思います。