かもさんのひそひそ話

耳をすませば聞こえてくるよ

小さい部分にも意味がある、のか

先日、料理をしていた際に指先を切ってしまいました。束ねた菜の花の根本を切り落とそうとして、誤って左手の人差し指の先を包丁にひっかけてしまったのです。幸い、爪が少し欠けたのと少しの切り傷ができた程度で済みました。昨年は同じような状況で親指の腹を縫う怪我をしてしまったので、またもやってしまったかと思ってひやりとしました。

 

小さい傷とはいえ、また利き手ではない左手は大して使わないとはいえ、やはり普段通りに使えないと不便なものです。昨日の夕飯のカレーを作っていても、鍋を持つ、ルーを割る、といった一つ一つの動作に力を入れられず、何とも不自由で閉口しました。小さいパーツにも意味があって存在しているのだなと感じました。そういえば小さいころに貰ったプラモデル、あれもねじが余っているのを無視して作っていたら、最終的には全然つじつまが合わなくなって困ってしまったことを思い出します。

 

小さい部分にも意味がある、と、金言めいたことを思って満足していると、ふとベランダに置いてある植木鉢のことが引っかかりました。先週末、バラとリンゴの選定の時期だったので、昨年の間に伸びた枝や花芽をつけていない枝をバッサリと切ってしまったのでした。また、ユーカリシマトネリコなどの生命力の旺盛な木はほおっておくとどんどん伸びてしまうので、見た目がぼさぼさしてきたら大きく切り戻す、ということを繰り返しています。キキョウは初冬には枯れてしまうので、地上部を全部切ってしまいます。自然に葉を落とすことも含めると、植物は1年に何回も、体の大部分を失っているようなものです。もしこれがヒトだったらば、と考えて、気持ちが悪くなったので考えるのをやめました。

 

植物は失った部分を再生するだけではなくて、わずかに残った一部から自分自身を作り出すこともできます。多肉植物の一部を折り取ってそのまま野ざらしにほおっておくと、切り口から根が出ていつの間にかそっくり同じものが生えてきます。もちろん、元の体の欠けた部分も、なにもなかったかのように復元されています。仕組みを調べると、生き物というのは本当によくできていると感心させられます。敵から逃げられる動物とその場で動けず食べられることしかできない植物という2項で考えると、後者が受け身で可哀そうな気がしてしまいます。ただそれは、一方の視点からもう一方を眺めて勝手にそう思っているだけで、植物は思った以上に状況に適応して生きているのだと改めて思いました。

 

植木鉢の手入れをしていると、見慣れない双葉がいくつか出ていました。多分ヒヨドリがどこかの家のナンテンの実を食べて、種を我が家に落としていったのだと思います。見知らぬ庭の実を欠いたナンテンと我が家の小さな芽を野鳥が結んでいる、と想像して、すこしうれしい気持ちでその小さな芽を新しい植木鉢に移しました。

 

今週のお題「かける」